20110824

決定的な環境・・・





 仕事柄、[環境]という言葉をよく使用します。この[環境]という言葉は、実に様々な要素を含んでいます。決して玄関の段差や、手すりの有無、生活導線などの物理的環境のみを差すのではありません。


 人が特定の役割を有したり、より発展的な自分でいられる課題や挑戦を内包する所属や集団。各文脈における人間関係。自己のあり方を方向付ける文化。社会的公正や安全、保障を担保してくれる制度。自己に対する要求や要請・・・・これらは全て環境なのです。


 人は環境の中でしか存在しえません。人は作業を通して環境と結びつきます。環境との結びつきがなければそれは”作業”ではなく単なる”動作”です。要素的に同じ動作、名前が同じ作業であっても、どのような環境でその作業を遂行するのかによって人の循環は異なります。


 興味や関心、役割や責任と同居する適度な要求や要請があれば、人はそれに応えようとします。実際にその要請に応え、環境をある程度統制できるという感覚を有することができれば、人は更に自己を発展的に循環させようとします。反対に興味や役割を失い、外部からの要請も存在しない環境では、人は容易に悪循環へと移行してしまいます。


 生産的作業を有する多くの人は、義務作業や習慣的作業があるレベルで担保されていますから、この悪循環はある程度以上は悪化せずに保たれると僕は思っています。しかし生産的作業から一線を退いた人や、退院後、作業遂行文脈の大きな転換を必要とする人は、環境との結びつきから肯定的な循環を築けない場合、重篤な悪循環に陥ってしまう危険性があると思います。


 だから10dimensionに代表される作業遂行文脈の確立や、ADOCやCOPMを使用した意味のある作業の共有が必要になります。


 意味のある作業が可能になるということは、その作業に必要な動作が可能になるということではありません。その作業が意味を持つことができる環境や文脈下で、その作業が可能になることが大切です。それが真の可能化だと僕は思っています。だからOTは、人-環境-作業、全ての側面に目を向けて、全ての側面に介入するべきなのです。


 だから僕は、作業療法とは本来、CLの文脈を形成する住み慣れた場所で展開されるべきであると考えています。しかし実際は医療機関に多くの作業療法士が所属していますし、僕もその1人です。


 [病院という環境で、障害を有して入院している患者]という、極めて特殊な文脈が良質な作業療法を展開する上での一番の弊害であると僕は思っています。人は文脈依存の生き物です。今どんな文脈に所属しているかで、人は自分を演じ分け、思考パターンまで変化を及ぼします。


 極めて実際の生活文脈に近い状況に思考を仮想変換し、その中でCLとOTが意味のある作業を共有すること、協業を行うこと。それが医療現場で良質な作業療法を展開するための重要な要素であり、僕の臨床家としての主なテーマの一つなのです。そのための面接技術や可能化の支援方法の潤沢化が僕の課題です。理想の介入や結果とは程遠いことが多々あります。それはCLの状態や各種制限が影響していることもあるかもしれませんが、自分の努力と研鑽によって解決できる余白は、まだまだ多いと日々反省しながら行動しています。



 [不適応的]循環は誕生時からはじまるといってよいものであり、何らかの原因によって引き起こされた能力障害によって促進されていく。これらの循環はまた環境との交流の結果、ゆっくりと発達するものかもしれない。それらはシステムの適応能力を超えた要請を生み出す社会的環境との交流によって促進されるかもしれない。また、もはやシステムに遂行を喚起させないほどに要請が小さくなってしまい、意志のサブシステムが修得を求める衝動を表出しえなくなった結果として生じるものかもしれない。世界を探索し修得しようとする衝動を満足するというシステムの要求が満たされない場合、また環境の要請に応えられない場合は、常に悪循環がある(Kielhofner,1980)


 治療は環境として作用するものでなければならないということ。つまり、遂行のための要請をまず示すことができ、肯定的なフィードバックをもたらすことのできる反応を引き出すものでなければならない。作業療法室はシステムに対する重要な入力源であり、[適応的]循環を育むことができる決定的な環境である。(Kielhofner,1980)

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