20111228

慣れることと関係を構築すること・・・




もしも複数の人から全く同じ質問をされたとして,
はたしてその答えは同じになるだろうか.

面識のない他人に質問された場合…
職場の上司に質問された場合…
親に質問された場合…
親友に質問された場合…
同志に質問された場合…

おそらくその答えは多様だと思う.

それは決して嘘をついているとかではなくて,
自分との関係性において,答えが選択されているんだと思う.

もしも僕が,他人に自分の意味のある作業について質問されたら,
一体どう答えるだろうか考えてみる.

作業に焦点を当てて質問されたことなんてないから
まずは困惑するかもしれない.

丁寧に説明されたら意図が理解できるかもしれない
でも理解はできても心の準備ができていなかったり,
日常の中で自分の意味のある作業について言語化してきた経緯がないから
上手く答えられないかもしれない.

もしかしたら,自分のイメージを保守することを無意識に選択したり,
プライベートをさらけ出すことに抵抗を感じて
当たり障りなく答えてしまうかもしれない.

仕事や長年継続していた趣味などの,アイデンティティを構築する
作業はすぐに想起することが可能かもしれないけれど,
それ以上の深い洞察は難しいのかもしれない.

作業療法面接は,質問の方法や,回答の引き出し方に関心を寄せる前に,
クライエントと作業療法士の関係性に重要な鍵があると思う.
質問者とクライエントの関係性によっては,
その会話には新しい世界が発生するかもしれない.

自分らしい生活を取り戻すために,様々な側面を開示して,
妥当性の高い開示のために,自分の生活について深く洞察して,
そして共に目指すべき目標を共有して,恊働する.

クライエントの認識において,作業療法士がそのような存在に
なることができるのならば,
作業療法面接やその先の恊働は素晴らしいものになるかもしれない.

まずはボトムアップで介入して,ある程度関係ができたら
面接をするという人がいるけれど,おそらくそれは,
セラピストがクライエントに”慣れたい”だけであって,
もしかしたら遠回りかもしれない.

でも初対面で面接を行うことも,実際難しいかもしれない.
しばらく介入を行いながらもいいと思う.

でもその”しばらく介入してから”の中身を大切にしてほしい.
どんな介入をしたとしても,
その介入の中で,enable occupationの事実と感覚を共有してほしい.
そして,それが自分の役割であることを伝えてほしい.

関係を作るとはそういうことだと思う.
拒否されないようにディマンドに寄り添いながら
”セラピストがクライエントに慣れる”ことではないと思う.


20111223

作業遂行と意思決定と恊働者

クライエントの主体性と,作業療法士の専門性を
統合して完成する契約は,当然作業療法士と
クライエントの理想的な契約の形だ.

また,契約は主体性の始まりであると同時に,
意思を暫定保留できるという効果があると思う.

目標に向かう強い意思をまだ持ち得ていないとしても,
理知的な判断や理解を土台とする契約は,
義務的な要素に引っ張られて,主体性が賦活するまでの
行動を組織化できる.

しかし,認知症や失語症に代表される,
意思疎通が困難なクライエントは,
上記のどちらの契約形態も不可能な場合も多い.

そのような場合,作業療法士の関心は
環境因子に占める割合が大きくなると思う.
まぁ環境因子は作業療法士である以上,
考えないときはないけど…

理知的な判断や,ナラティブとしての組織化が
当てにならない状態で,大切な要素はやはり環境だと思う.

作業療法士は,最も柔軟な環境因子であるべきだ.

時には,生理的欲求を解決してくれる環境になることが
優先度の高い介入戦略かもしれない.

時には,馴染みのある作業を遂行する人たちとの
交流を設定することかもしれない.

時には,同じ疾患を呈しながらも,作業の可能化を
実践するクライエントが近くにいる状況を設定することかもしれない.

クライエントの過去の作業遂行文脈を知り,その文脈を考慮した
作業を提供することかもしれない.

過去の作業遂行文脈を知らなければ,どんな環境がクライエントに
適しているのかを判断できないかも知れない.

接遇や丁寧さで補完する習慣は,
大きな問題を生じさせないが故に
非効果的な自己に気づけないかもしれない.

クライエントの行動や表情を見ていると,
人間の作業遂行がPEOの連関であるということが
とてもよく分かる.

僕たちは皆,めまぐるしく変化する環境に対して.
自己を,また環境を変化させながら適応を維持し,
発展的な自己を構築している.

しかし多くの,特に契約を結べないクライエントは,
環境に自己を適応させることも,環境を自己に適応させることも
困難を極める場合が多い.

作業遂行が,PEOの連関であるならば,
環境に不適応な状態で提供される作業は動作だと思う.

それがイメージ先行の大義名分で保証された
「訓練」という名の下に提供され続ける.

「意味のある作業」とは,昔行っていた活動とは限らない.
でも昔行っていた作業なのかもしれない.

表面的に共有された作業を媒介にする契約は,
クライエントと作業療法士に強い絆と適応に向かう
意思を与えないかもしれない.

理解地平の確立にあるように,もはやお互いの地平に
留まっていられないような共有体験からshareした
物語や価値観は,自然に意味のある作業を二人に教えてくれるかもしれない.

作業遂行がPEOの連関であるならば,
意味のある作業の共有は,PEO全ての側面の共有が大切.

そこに関心を持っていれば,契約の重要度は下がるのかもしれない.
でも,そこに関心を持ちながらも,しっかりと契約を結ぶことが
可能ならば,それは非常に強い力を持つと思う.

作業療法士にとっても,クライエントにとっても.

ADOCは,様々な因子のせいで契約を結ぶことが困難な
クライエントに対しても有効かもしれない.

また,形式上の契約を結ぶ能力を有しているクライエントとの
恊働に対しても,より効果的な契約が可能かもしれない.

意思決定を共有するということは,
恊働者が互いに主体性をもちながら,そしてお互いの強みを
開示しながら効果的な関係を築けるということ.

説明と同意などといった形式上の契約ではなく.
真の意思決定の共有は,クライエントが自分の現実を組織化し,
道しるべを与えてくれる.そしてその道程には,隣に作業療法士が
いるという認識も与えてくれる.

ADOCは特別なマニュアルや理論を必要としていない.でも
人間が作業をすることとはどういうことなのか?そこは必ず
考えてほしい.

よく面接のコツを聞かれることがある.(うまくないけど)
作業遂行とは?その答えを探求することと,自分が絶望するクライエントの
間の前にいる一番近くの環境であることを知ればいいと思う.

だから面接は特殊な技術ではないと思う.
良い実践をする作業療法士は,面接技能も高いと思う.
面接技能が高い作業療法士は,実践力も高いんだと思う.

今,様々な取り組みが行われていて,面接や契約を行う作業療法士が
増えていると思う.

今大切なことは,形骸化しないこと.

大切なものを大切にすること.



20111215

柔軟な構造





クライエントの意味のある作業について
面接や対話を進めるにあたり,
OTがその作業について,あえて「知らない」という
環境因子になることはある.

でもクライエントの主体性や語りを引き出す目的で
「知らない」という環境因子になるのであって,
面接に対する苦手意識や,関係性の構築に対する
自信の無さから選択したその手段は効果的ではない.

僕たちが知らなすぎたら,クライエントは
表出を躊躇するかもしれない.

一方的な質問ばかりではクライエントとOTの
理想的な恊働関係は構築できない.

「知らない自分」はクライエントの表出によって
変化しなければいけない.

クライエントの表出は,作業療法の資源として
大切に扱わなくてはいけない.

その作業についてクライエントが表出してくれて,
両者が共有できたとしても,
当然最初から揺るぎない意思を持って
実践に向かうクライエントばかりではない.

クライエントが作業を体験する目的を理解できなければ,
より効果的な環境因子としての戦略が必要になる.

責任を負い過ぎることで,その主体性が
抑制されてしまうかもしれない.

負わなすぎることで,自己効力感は
低下してしまうかもしれない.

経験はフィードバックの内容によって初めて
新しい肯定的な物語になるかもしれない.
反対にその作業の主観的価値を低下させてしまうかもしれない.

大切なことは,その遂行がクライエントに
どのような変化をもたらしたのかということ.

自己効力感や主体性の低下したクライエントに対して,
自分の力で遂行したという認識をいかに持ってもらうか.
そこに固執するセラピストがいるけれど関心の視点が違う.

そもそも自力でしていないものはしていない.

自力で遂行できるということは,確かに大切な要素だ.
でも誰が遂行したとか,そんな事実はあまり重要ではない.
もしも自力で遂行できることのみが重要ならば,
機能訓練と動作練習を徹底するべきだろう.

「自分らしさ」を取り戻すためには,
大切な作業に必要な「技能」を取り戻すだけでは不十分だ.
遂行の感覚を,時間を,物語を,繋がりを…
取り戻さなければいけない要素は沢山ある.

作業療法士は,肯定的な意思の循環がなければ
取り戻せないその統合を取り戻すために,
常に効果的な環境でいなければいけない.

作業療法は,その領域が,人ー環境ー作業の連関であるがゆえに
非常に曖昧・抽象的・難しいという印象を自他に与える.

しかし難しさのもう一つの理由は,連関を扱う上で,
クライエントのスタートラインがみな異なるという点だ.

八百屋に行くときは,野菜が欲しいから.
靴屋に行く時は,靴が欲しいから.

でも初めて作業療法を受けるクライエントは,
「自分の意味のある作業で構成された,良循環を取り戻したい」
と思ってOT室の扉を叩いてはいないだろう.

つまり,クライエントがその資源を採用する
目的や主体性という視点において,
作業療法は圧倒的に曖昧で不明瞭な始まりを回避できない.

よって作業療法士は,クライエントの状態によって.
介入手段に適時柔軟性を求められる.

自己を客観的に評価し,取り戻すべき作業に目を向けて
協業的関係を最初から構築できるクライエントもいる.

下位欲求が満たされないが故に様々な作業に関心を持てず,
苦しんでいるクライエントもいる.

認知機能の低下や高次脳機能障害の影響で,
作業療法を理解できないクライエントもいる.

「わかってもらえない」と嘆く前に,
しっかりと自分が何を支援する人間なのか
説明したのだろうか?

クライエントが様々な理由で理解できないのならば,
共通理解のプロセスを抜きに効果的な介入を行うための
省察をしたのだろうか?

採用した機能訓練や基本動作訓練は,
その柔軟性の下に作業療法士として
あえて採用した内容だろうか?

急性期だからとか,重傷だからとか,
そんな理由からではないだろうか?

僕たちは,社会という環境と結びつきながら
自己を循環させる複雑系である人間の,
その循環を支援する専門職であるがゆえに,
もっと自分達の作業を組織的に,構造的に
理解しなければいけない.

そのプロセスに苦しんでいながらも,
現状の中でのみ日々を繰り返し,
探求に目を向けないのならば,

おそらくそれは素人と呼ぶんだと思う.






20111208

shared decision-making

日々の臨床場面で作業療法を実践していく中で,
「意思決定の共有」の重要性を強く感じる.


「意思決定の共有」を重視することで,
効果的な恊働関係が築けた事例が沢山ある.


でもそのプロセスは,単純に「説明」と「同意」で
成されるものではないと思う.


形式だけの「契約」は,法的な基準や倫理的問題をクリアするだけ.
仮に面接や各種評価で詳細にクライエントの意味のある作業や
その作業遂行文脈に触れることができたとしても,
その内容の価値をOTのみが認識しているとしたら,
それはやはり意思決定の共有とは言えないと思う.


「共通の理解地平の確立」にもあるように,
クライエントとOTが,
お互いの地平に留まっていられないくらいに
あらゆる先入観や価値観を排除して,
真の意味でクライエントを理解し,
そのプロセスの先に恊働関係を築きあげ,
目標や,解決に向けた手段における意思決定を共有していく.
そんな流れが僕の思い描く理想.


多くの場合,クライエントは
作業療法を知らない状態で処方を受ける.
だからまずは作業療法とは何なのか?
そして両者の関係性を明確にする必要がある.
「作業に焦点を当てた関係性」のもとに
共通の土俵に上がらなければいけない.


多分この時点でつまずくことが多いんじゃないかな.
OTはクライエントの作業に関心を持っているけど,
クライエントは自分の作業に全く関心がない.
そんな認識のズレがあるまま評価や介入が進んで,
いつも悶々としているような…


ADOCは,作業療法のプロセス全てに効果的なツールだと思う.


イラストを使用することでクライエントが作業を想起しやすい
ことがよく言われるけど,
それ以前にADOCというツールを使用することで,
作業療法とは何なのか?その答えを示してくれる.


また,最初からICFの「活動と参加」の項目を中心に
構成されたイラストを使用して面接を進めるから
自然にクライエントをOTが,焦点を当てるべき領域を
一緒に向くことができる.


クライエントに作業療法の説明を行う.
OTが何をしたいと思っているのかを伝える.
共通の理解地平を確立する.
共に目標を決める.
共に支援内容を決める.


意思決定の共有には,
これだけの要素が内包していなければいけないと思う.


ADOCはそのプロセス全てをアシストしてくれる.


「作業療法士はクライエントの指導者や教師ではなく,
あくまでもパートナーです」


就職したての頃,
この言葉の意味があまりよく分からなかった…


あくまでもクライエントの主体性を重視しながらも,
専門職として必要な支援はしっかりと行う.
そんな一見相反する関係性を表現すると,
やっぱりパートナーという表現しかないんだと思う.


その恊働の媒体とは
勿論クライエントの人生…


意味のある作業を軸に,
良循環を取り戻したいクライエントの人生…


「意思決定の共有」という言葉を大切に使いたい…








ADOCのアイコンを見てほしい…










二本の稜線が交わり一本の矢印に集約されるイラストは

とても大切なメッセージ











20111207

もっと知るべきことがあるだけ・・・





「臨機応変」と「何でもあり」は違う.
その違いは目的の明確化だと思う.

臨機応変とは,目的を達成するために
柔軟な視点や手段の採用を制限しないこと.

決して「何でもあり」なわけではない.

その柔軟な選択の妥当性を担保するために
理論は存在するのかもしれない.

理論の存在によって多様性が構造化されるならば,
その臨機応変さは当然持ちうるべき選択肢なんだとも思う.

でも目の前のクライエントのことを知らなければ
理論を知っていても使う術がないと思う.

クライエントを知るということは
「意味のある作業」を知ることだけでは足りない.

その作業にはどんな意味があるのか?
その意味を守るためには何が必要なのか?
他にどんな作業が必要なのか?
どんな環境が必要なのか?
今足りないものは何なのか?

それらを明確化していくためには
クライエントの作業遂行文脈を確立したい.
過去と現在の作業バランスを比較したい.
クロスインパクトマトリックスも一つの指標になるかもしれない.
マズローの欲求段階が介入順序の決定に役立つかもしれない.
フロー理論が難易度の段階付けに有効かもしれない……etc

色々な要素が必要だと思う.

複雑系である人間を狭い視野で捉えようとするから
セラピストの心の中でバリアンスが発生するんだと思う.

複雑なものを複雑な視野で捉えればそれは結果的にシンプル.

「意味のある作業」と名付けられた項目だけが焦点化されて,
クライエントのダイナミクスが置き去りにされるような実践だけはしたくない…

僕は作業療法は曖昧だなんて思っていない…

僕は作業療法が何でもありなんて思っていない…

もっと知るべきことがあるだけ…