重症度が非常に高く、座位をとることも困難。失語も重度であり意思疎通も不可能なクライエントがいます。今朝の事例検討の時間に、僕の自慢の後輩 I さんが、プログラムに悩み、みんなで話し合いを行いました。
このような事例は決して少なくありません。関節可動域訓練や座位保持訓練などの他に提供できることがない・・・そんな悩みはOTならば誰もが一度は経験しているのかもしれません。
このような事例の場合、よく耳にするのは”刺激をいれる”というプロセスです。しかし刺激はクライエントとって有意義な意味のある刺激でなければ、侵害刺激にもなりえます。
次によく聞くのは、家族から”事例が好きだったこと” ”好きだったもの”などを聴取するというプロセスです。これも必ずしも効果的な情報が得られるとは限りません。案外家族も本人の価値を見出していた作業は想起しにくいものです。
私達にとっては日常の風景も、クライエントの家族にとっては”異常事態”です。ついこの間まで元気だった家族が、今はベッドから起き上がることもできず、鼻から管を通されて、言葉を発することもできない・・・耐えかねる景色が目の前に現実として展開されています。
様々な医学的視点からの”丁寧な”説明によって、いつの間にか家族の関係は、重度障害者と介護者という関係にシフトされてしまいます。
心の整理もつかないまま、家族は様々な介助法やリスク管理を伝達されていきます。地球上で最も大切な”家族”への愛情や想いは、いつの間にか、”家でみれるのか?” "この介助を続けていくのは大変だ”という想いに摩り替えられてしまいます。
僕が持っているイメージは、”家族を家族に戻す”というものです。OT介入に使えそうな作業項目を聞き出そうとするのではなく、様々なエピソードを家族と共有しながら、時間や空間や季節や天気や作業の中での”家族としての繋がりや想い”を外在化してもらい、共有していきます。
家族がクライエントを、重症患者としてでなく、大切な家族として見れるようになる頃には、介入のヒントは沢山共有できていることが多いのです。
僕はその大切なプロセスを踏んでから、家族に、どうやって重度障害を負ってしまった大切な家族と人生を送っていくのか?を考えてほしいです。一緒に考えていきたいです。大切な家族を愛するという主体性の中に、頑張るところ・資源に頼るところ・手段を覚えるところなどを決めてほしいです。自宅に帰ることができても、”重度障害者とその介護者”という文脈のまま時間が思い出をすり減らす場合が沢山あります。自宅に帰れなくても、”大切な家族”という想いを根底に共有する関係性で、残りの人生を寄り添うケースも沢山あります。人生において、家族を心から大切に想える以上に尊い作業はないと思います。愛情を根底に置いた想起の中にこそ、価値ある作業は表出されるといつも思っています。