20120216

焦点のズレ





人生において,何かを諦めたことが殆どない.
正確には,諦めたという認識がない.

実際には,数えきれないほどの諦めがあったと思う.
でも諦めたという認識がない.

長い時間の中で,沢山の作業を通した結びつきの中で,
何回もの価値観の転換や,自分の時間と場所を占領する作業の変化があった.

その度に新しい目標や目的が生まれて,挑戦や循環が更新された.
それは環境との「折り合い」と言い換えられるかもしれない.

折り合いとは,ある角度から見れば「適応」や「転換」であるし,
別の角度から見れば「諦め」なのかもしれない.

結局「諦め」とは認識の中でのみ成立しうるナラティブ.

ナラティブとは「物語」と「語り」の連鎖.
ネガティブな物語はネガティブな語りを生み出し,
ネガティブな語りがネガティブが物語を更に更新する.

多くのクライエントは,障害を経験して,
再び自己の循環を取り戻す過程において,
いくつかの作業の変更を余儀なくされる.

それは,作業形態の変更かもしれないし,作業自体の変更かもしれない.
大切なことは,そのプロセスがどのような「物語」としてクライエントの
認識の中で処理されるかどうか.

障害受容という言葉が昔から嫌いだった.
臨床でこの言葉を使用したことは一度もない.

自分と環境との関係性における自己の認識は,
オープンシステムとして常に可変的であるし,
「過去の自分」と「今の自分」との関係性における認識は,
「今の自分」の適応や実現や挑戦の下に可変的だ.

「受容できているかどうか?」という問い自体が,障害に焦点を当てている.
「乗り越えましょう!」という語りかけ自体が,障害に焦点を当てている.
「今は辛いけど,現実を受け止めて」という説得は,希望が体験として存在しない.

「諦め」なんて一生しなくていい.
「受容」なんて概念がもしも存在するならば,
それはおそらく一生できるはずがない.

障害者としての負の認識は,おそらく一生自分と並走する.
並走する負の認識の隣を走る「今の自分」がどうあるか?
それが大切.それが僕たちが焦点を当てるべき場所.

折り合いをつけるのは,クライエントの体験と認識.
体験が伴わない他者からの言葉じゃない.

夢のみずうみ村の「片手料理教室」の師範代である臼田喜久江さんは,
脳卒中発症直後,先生に向かってこう言った.

「先生,車椅子でまっすぐ走れるようにしてください.それだけで結構です.
それができたら私はあの窓までいって飛び降りますから」

現在の臼田さんは違う.

「私は,右手を掻くことはできませんが,それ以外に私ができないことは
何もありません.脳卒中になったから今の素晴らしい毎日があります.
私は脳卒中に感謝しています」

発症前と現在では,自分の時間と場所を占領する作業はその多くが
異なると思う.でも臼田さんは毎日をイキイキと過ごしている.

それは「諦め」でも「説得」でも「受容」でもなくて,
作業の可能化と結びつきの連続から生まれた体験と解釈の統合.










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