20111228

慣れることと関係を構築すること・・・




もしも複数の人から全く同じ質問をされたとして,
はたしてその答えは同じになるだろうか.

面識のない他人に質問された場合…
職場の上司に質問された場合…
親に質問された場合…
親友に質問された場合…
同志に質問された場合…

おそらくその答えは多様だと思う.

それは決して嘘をついているとかではなくて,
自分との関係性において,答えが選択されているんだと思う.

もしも僕が,他人に自分の意味のある作業について質問されたら,
一体どう答えるだろうか考えてみる.

作業に焦点を当てて質問されたことなんてないから
まずは困惑するかもしれない.

丁寧に説明されたら意図が理解できるかもしれない
でも理解はできても心の準備ができていなかったり,
日常の中で自分の意味のある作業について言語化してきた経緯がないから
上手く答えられないかもしれない.

もしかしたら,自分のイメージを保守することを無意識に選択したり,
プライベートをさらけ出すことに抵抗を感じて
当たり障りなく答えてしまうかもしれない.

仕事や長年継続していた趣味などの,アイデンティティを構築する
作業はすぐに想起することが可能かもしれないけれど,
それ以上の深い洞察は難しいのかもしれない.

作業療法面接は,質問の方法や,回答の引き出し方に関心を寄せる前に,
クライエントと作業療法士の関係性に重要な鍵があると思う.
質問者とクライエントの関係性によっては,
その会話には新しい世界が発生するかもしれない.

自分らしい生活を取り戻すために,様々な側面を開示して,
妥当性の高い開示のために,自分の生活について深く洞察して,
そして共に目指すべき目標を共有して,恊働する.

クライエントの認識において,作業療法士がそのような存在に
なることができるのならば,
作業療法面接やその先の恊働は素晴らしいものになるかもしれない.

まずはボトムアップで介入して,ある程度関係ができたら
面接をするという人がいるけれど,おそらくそれは,
セラピストがクライエントに”慣れたい”だけであって,
もしかしたら遠回りかもしれない.

でも初対面で面接を行うことも,実際難しいかもしれない.
しばらく介入を行いながらもいいと思う.

でもその”しばらく介入してから”の中身を大切にしてほしい.
どんな介入をしたとしても,
その介入の中で,enable occupationの事実と感覚を共有してほしい.
そして,それが自分の役割であることを伝えてほしい.

関係を作るとはそういうことだと思う.
拒否されないようにディマンドに寄り添いながら
”セラピストがクライエントに慣れる”ことではないと思う.


20111223

作業遂行と意思決定と恊働者

クライエントの主体性と,作業療法士の専門性を
統合して完成する契約は,当然作業療法士と
クライエントの理想的な契約の形だ.

また,契約は主体性の始まりであると同時に,
意思を暫定保留できるという効果があると思う.

目標に向かう強い意思をまだ持ち得ていないとしても,
理知的な判断や理解を土台とする契約は,
義務的な要素に引っ張られて,主体性が賦活するまでの
行動を組織化できる.

しかし,認知症や失語症に代表される,
意思疎通が困難なクライエントは,
上記のどちらの契約形態も不可能な場合も多い.

そのような場合,作業療法士の関心は
環境因子に占める割合が大きくなると思う.
まぁ環境因子は作業療法士である以上,
考えないときはないけど…

理知的な判断や,ナラティブとしての組織化が
当てにならない状態で,大切な要素はやはり環境だと思う.

作業療法士は,最も柔軟な環境因子であるべきだ.

時には,生理的欲求を解決してくれる環境になることが
優先度の高い介入戦略かもしれない.

時には,馴染みのある作業を遂行する人たちとの
交流を設定することかもしれない.

時には,同じ疾患を呈しながらも,作業の可能化を
実践するクライエントが近くにいる状況を設定することかもしれない.

クライエントの過去の作業遂行文脈を知り,その文脈を考慮した
作業を提供することかもしれない.

過去の作業遂行文脈を知らなければ,どんな環境がクライエントに
適しているのかを判断できないかも知れない.

接遇や丁寧さで補完する習慣は,
大きな問題を生じさせないが故に
非効果的な自己に気づけないかもしれない.

クライエントの行動や表情を見ていると,
人間の作業遂行がPEOの連関であるということが
とてもよく分かる.

僕たちは皆,めまぐるしく変化する環境に対して.
自己を,また環境を変化させながら適応を維持し,
発展的な自己を構築している.

しかし多くの,特に契約を結べないクライエントは,
環境に自己を適応させることも,環境を自己に適応させることも
困難を極める場合が多い.

作業遂行が,PEOの連関であるならば,
環境に不適応な状態で提供される作業は動作だと思う.

それがイメージ先行の大義名分で保証された
「訓練」という名の下に提供され続ける.

「意味のある作業」とは,昔行っていた活動とは限らない.
でも昔行っていた作業なのかもしれない.

表面的に共有された作業を媒介にする契約は,
クライエントと作業療法士に強い絆と適応に向かう
意思を与えないかもしれない.

理解地平の確立にあるように,もはやお互いの地平に
留まっていられないような共有体験からshareした
物語や価値観は,自然に意味のある作業を二人に教えてくれるかもしれない.

作業遂行がPEOの連関であるならば,
意味のある作業の共有は,PEO全ての側面の共有が大切.

そこに関心を持っていれば,契約の重要度は下がるのかもしれない.
でも,そこに関心を持ちながらも,しっかりと契約を結ぶことが
可能ならば,それは非常に強い力を持つと思う.

作業療法士にとっても,クライエントにとっても.

ADOCは,様々な因子のせいで契約を結ぶことが困難な
クライエントに対しても有効かもしれない.

また,形式上の契約を結ぶ能力を有しているクライエントとの
恊働に対しても,より効果的な契約が可能かもしれない.

意思決定を共有するということは,
恊働者が互いに主体性をもちながら,そしてお互いの強みを
開示しながら効果的な関係を築けるということ.

説明と同意などといった形式上の契約ではなく.
真の意思決定の共有は,クライエントが自分の現実を組織化し,
道しるべを与えてくれる.そしてその道程には,隣に作業療法士が
いるという認識も与えてくれる.

ADOCは特別なマニュアルや理論を必要としていない.でも
人間が作業をすることとはどういうことなのか?そこは必ず
考えてほしい.

よく面接のコツを聞かれることがある.(うまくないけど)
作業遂行とは?その答えを探求することと,自分が絶望するクライエントの
間の前にいる一番近くの環境であることを知ればいいと思う.

だから面接は特殊な技術ではないと思う.
良い実践をする作業療法士は,面接技能も高いと思う.
面接技能が高い作業療法士は,実践力も高いんだと思う.

今,様々な取り組みが行われていて,面接や契約を行う作業療法士が
増えていると思う.

今大切なことは,形骸化しないこと.

大切なものを大切にすること.



20111215

柔軟な構造





クライエントの意味のある作業について
面接や対話を進めるにあたり,
OTがその作業について,あえて「知らない」という
環境因子になることはある.

でもクライエントの主体性や語りを引き出す目的で
「知らない」という環境因子になるのであって,
面接に対する苦手意識や,関係性の構築に対する
自信の無さから選択したその手段は効果的ではない.

僕たちが知らなすぎたら,クライエントは
表出を躊躇するかもしれない.

一方的な質問ばかりではクライエントとOTの
理想的な恊働関係は構築できない.

「知らない自分」はクライエントの表出によって
変化しなければいけない.

クライエントの表出は,作業療法の資源として
大切に扱わなくてはいけない.

その作業についてクライエントが表出してくれて,
両者が共有できたとしても,
当然最初から揺るぎない意思を持って
実践に向かうクライエントばかりではない.

クライエントが作業を体験する目的を理解できなければ,
より効果的な環境因子としての戦略が必要になる.

責任を負い過ぎることで,その主体性が
抑制されてしまうかもしれない.

負わなすぎることで,自己効力感は
低下してしまうかもしれない.

経験はフィードバックの内容によって初めて
新しい肯定的な物語になるかもしれない.
反対にその作業の主観的価値を低下させてしまうかもしれない.

大切なことは,その遂行がクライエントに
どのような変化をもたらしたのかということ.

自己効力感や主体性の低下したクライエントに対して,
自分の力で遂行したという認識をいかに持ってもらうか.
そこに固執するセラピストがいるけれど関心の視点が違う.

そもそも自力でしていないものはしていない.

自力で遂行できるということは,確かに大切な要素だ.
でも誰が遂行したとか,そんな事実はあまり重要ではない.
もしも自力で遂行できることのみが重要ならば,
機能訓練と動作練習を徹底するべきだろう.

「自分らしさ」を取り戻すためには,
大切な作業に必要な「技能」を取り戻すだけでは不十分だ.
遂行の感覚を,時間を,物語を,繋がりを…
取り戻さなければいけない要素は沢山ある.

作業療法士は,肯定的な意思の循環がなければ
取り戻せないその統合を取り戻すために,
常に効果的な環境でいなければいけない.

作業療法は,その領域が,人ー環境ー作業の連関であるがゆえに
非常に曖昧・抽象的・難しいという印象を自他に与える.

しかし難しさのもう一つの理由は,連関を扱う上で,
クライエントのスタートラインがみな異なるという点だ.

八百屋に行くときは,野菜が欲しいから.
靴屋に行く時は,靴が欲しいから.

でも初めて作業療法を受けるクライエントは,
「自分の意味のある作業で構成された,良循環を取り戻したい」
と思ってOT室の扉を叩いてはいないだろう.

つまり,クライエントがその資源を採用する
目的や主体性という視点において,
作業療法は圧倒的に曖昧で不明瞭な始まりを回避できない.

よって作業療法士は,クライエントの状態によって.
介入手段に適時柔軟性を求められる.

自己を客観的に評価し,取り戻すべき作業に目を向けて
協業的関係を最初から構築できるクライエントもいる.

下位欲求が満たされないが故に様々な作業に関心を持てず,
苦しんでいるクライエントもいる.

認知機能の低下や高次脳機能障害の影響で,
作業療法を理解できないクライエントもいる.

「わかってもらえない」と嘆く前に,
しっかりと自分が何を支援する人間なのか
説明したのだろうか?

クライエントが様々な理由で理解できないのならば,
共通理解のプロセスを抜きに効果的な介入を行うための
省察をしたのだろうか?

採用した機能訓練や基本動作訓練は,
その柔軟性の下に作業療法士として
あえて採用した内容だろうか?

急性期だからとか,重傷だからとか,
そんな理由からではないだろうか?

僕たちは,社会という環境と結びつきながら
自己を循環させる複雑系である人間の,
その循環を支援する専門職であるがゆえに,
もっと自分達の作業を組織的に,構造的に
理解しなければいけない.

そのプロセスに苦しんでいながらも,
現状の中でのみ日々を繰り返し,
探求に目を向けないのならば,

おそらくそれは素人と呼ぶんだと思う.






20111208

shared decision-making

日々の臨床場面で作業療法を実践していく中で,
「意思決定の共有」の重要性を強く感じる.


「意思決定の共有」を重視することで,
効果的な恊働関係が築けた事例が沢山ある.


でもそのプロセスは,単純に「説明」と「同意」で
成されるものではないと思う.


形式だけの「契約」は,法的な基準や倫理的問題をクリアするだけ.
仮に面接や各種評価で詳細にクライエントの意味のある作業や
その作業遂行文脈に触れることができたとしても,
その内容の価値をOTのみが認識しているとしたら,
それはやはり意思決定の共有とは言えないと思う.


「共通の理解地平の確立」にもあるように,
クライエントとOTが,
お互いの地平に留まっていられないくらいに
あらゆる先入観や価値観を排除して,
真の意味でクライエントを理解し,
そのプロセスの先に恊働関係を築きあげ,
目標や,解決に向けた手段における意思決定を共有していく.
そんな流れが僕の思い描く理想.


多くの場合,クライエントは
作業療法を知らない状態で処方を受ける.
だからまずは作業療法とは何なのか?
そして両者の関係性を明確にする必要がある.
「作業に焦点を当てた関係性」のもとに
共通の土俵に上がらなければいけない.


多分この時点でつまずくことが多いんじゃないかな.
OTはクライエントの作業に関心を持っているけど,
クライエントは自分の作業に全く関心がない.
そんな認識のズレがあるまま評価や介入が進んで,
いつも悶々としているような…


ADOCは,作業療法のプロセス全てに効果的なツールだと思う.


イラストを使用することでクライエントが作業を想起しやすい
ことがよく言われるけど,
それ以前にADOCというツールを使用することで,
作業療法とは何なのか?その答えを示してくれる.


また,最初からICFの「活動と参加」の項目を中心に
構成されたイラストを使用して面接を進めるから
自然にクライエントをOTが,焦点を当てるべき領域を
一緒に向くことができる.


クライエントに作業療法の説明を行う.
OTが何をしたいと思っているのかを伝える.
共通の理解地平を確立する.
共に目標を決める.
共に支援内容を決める.


意思決定の共有には,
これだけの要素が内包していなければいけないと思う.


ADOCはそのプロセス全てをアシストしてくれる.


「作業療法士はクライエントの指導者や教師ではなく,
あくまでもパートナーです」


就職したての頃,
この言葉の意味があまりよく分からなかった…


あくまでもクライエントの主体性を重視しながらも,
専門職として必要な支援はしっかりと行う.
そんな一見相反する関係性を表現すると,
やっぱりパートナーという表現しかないんだと思う.


その恊働の媒体とは
勿論クライエントの人生…


意味のある作業を軸に,
良循環を取り戻したいクライエントの人生…


「意思決定の共有」という言葉を大切に使いたい…








ADOCのアイコンを見てほしい…










二本の稜線が交わり一本の矢印に集約されるイラストは

とても大切なメッセージ











20111207

もっと知るべきことがあるだけ・・・





「臨機応変」と「何でもあり」は違う.
その違いは目的の明確化だと思う.

臨機応変とは,目的を達成するために
柔軟な視点や手段の採用を制限しないこと.

決して「何でもあり」なわけではない.

その柔軟な選択の妥当性を担保するために
理論は存在するのかもしれない.

理論の存在によって多様性が構造化されるならば,
その臨機応変さは当然持ちうるべき選択肢なんだとも思う.

でも目の前のクライエントのことを知らなければ
理論を知っていても使う術がないと思う.

クライエントを知るということは
「意味のある作業」を知ることだけでは足りない.

その作業にはどんな意味があるのか?
その意味を守るためには何が必要なのか?
他にどんな作業が必要なのか?
どんな環境が必要なのか?
今足りないものは何なのか?

それらを明確化していくためには
クライエントの作業遂行文脈を確立したい.
過去と現在の作業バランスを比較したい.
クロスインパクトマトリックスも一つの指標になるかもしれない.
マズローの欲求段階が介入順序の決定に役立つかもしれない.
フロー理論が難易度の段階付けに有効かもしれない……etc

色々な要素が必要だと思う.

複雑系である人間を狭い視野で捉えようとするから
セラピストの心の中でバリアンスが発生するんだと思う.

複雑なものを複雑な視野で捉えればそれは結果的にシンプル.

「意味のある作業」と名付けられた項目だけが焦点化されて,
クライエントのダイナミクスが置き去りにされるような実践だけはしたくない…

僕は作業療法は曖昧だなんて思っていない…

僕は作業療法が何でもありなんて思っていない…

もっと知るべきことがあるだけ…


20111130

見えない大陸・・・




今年のOSセミナーのレセプションの席で,
デイサービスけやき通りの葉山さんとお話する機会がありました.
葉山さんは自らがクライエントの立場で経験した
作業療法について,沢山の貴重なお話を聞かせてくれました.
その中で,とても印象に残っている話があります.

葉山さんは,「作業療法士に褒められるのは,他の誰に褒められるよりも
とにかく,とにかく本当に嬉しかった」のだそうです.

葉山さんと言えば,パスタの話があまりにも有名です.
作業療法士でパスタの話を知らない人はいないと思います,
その時の話をしてくれました.

「僕がどんな味付けにこだわりを持っているかとか,
どんな理由でパスタを作りたいと思っているのかとか.
作業療法士の先生はそのことを全部知っていたから,
とにかく僕が本当に嬉しいと思えるような関わりを
いつもしてくれたんです」

こんな話をしてくれました.

作業療法士は,クライエントの意味のある作業を「項目」としてのみ
共有しているのではありません.
OTIPMの10dimensionに代表されるように,
環境,役割,動機,課題,文化,社会,制度,心身機能,時間,適応
など,様々な側面(主観的遂行文脈)を共有しています.
だから,クライエントが意味のある作業を遂行する時,
また作業療法士がその作業の遂行を支援するとき.
その作業にどんな意味があるのか?
その作業のどんな部分にこだわりがあるのか?
その作業を媒介にどんな物語を歩んできたのか?
どんな特有の価値観をもっているのか?
などの側面を作業療法士は常に意識しています.
だから結果として,そこで生まれる声かけやアドバイス,
感想などの表出は,クライエントが(Enabling Occupation)を感じられる
ものになるのだと思います.

人間は,自分が所属する環境の中で,実際の技能の適応が求められます.
また,その環境に適応する中で,自己効力感も同時に必要です.
両者が存在するからこそ,私たちは生活における良循環を構築できます.

作業を構成している「動作」を支援しているのではなくて,
「作業」を支援するという意味を考えなければいけません.

葉山さんは,感情をおもいっきり表に出して,
僕に嬉しかった話をしてくれました.

葉山さんは,リハビリテーションには,「価値観の転換」が不可欠と言っています.
価値観の転換を図るためには,作業の可能化(Enabling Occupation)の体験が
不可欠とも言っています.

葉山さんは,話の最後にこんな話もしてくれました.

「作業療法は,僕を見えない大陸に連れて行ってくれたセラピーでした.
一人では決してそれは見えなくて,一人でたどり着くことはできないけれど,
作業療法士と一緒にたどり着けるその大陸は,どこまでも素晴らしい景色が
広がっていたのです.ぜひ沢山の障害をもったクライエントにそんな景色を
見せてあげてほしいと思っています」と・・・



作業選択意思決定支援ソフト



20111128

ただフィードバックがあるだけ・・・





面接評価が苦手だと訴えるセラピストをよく見かけます.

確かに面接は簡単ではありません.

しかし,話を聞いてみると,クライエントが大切な作業を表出してくれないことを

「上手くいかなかった面接」と捉えているセラピストが多い気がします.

はたしてそうでしょうか?

面接技術の研鑽はもちろん大切ですが,クライエントが作業を表出できなかった事実は,

「失敗」ではなくて,「評価結果」と考えるべきです.

「面接が上手くできなかった」と考えるのではなくて,

「まだ自分の大切な作業に目を向けられない段階」

と足らえたほうが妥当なクライエントも多いのです.

そこを見逃さないでください.

大切なのは,その後の介入です.

おそらく,面接で作業にうまく焦点を当てられなかった場合,

ボトムアップアプローチに転換してしまうセラピストが

多いのではないでしょうか?

もしくはなるべく拒否されないプログラムを実施することを

無意識に選択していたり・・・

クライエントが大切な作業に焦点を当てられない理由は沢山あると思います.

どんな理由であれ,クライエントは多くの作業を剥奪された状態である

ことは間違いないでしょう.

そこで必要になることは,やはりEnabling Occupation (作業を可能にすること)

の体験だと思います.

作業の可能化とは,単にできない動作が可能になるということではありません.

その作業が「できること」に加えて,

「できる」と心から思えること,

毎日のわずかな変化を感じ取れること,その変化を認められること,

その変化が次の,そして先の何に繋がるのか?それを感じることができること,

その変化を通して,大切な人,物,立場,役割,場所,時間と結びつけること,

結びつけると思えること,

自分の新しい価値観が生まれること,

これらの全てを支援することが大切です.

それは,技能の向上を支援するだけでは不十分です.

関わりの中で生まれる一瞬の変化を見逃さず,聞き逃さず,

技能と心の動きに寄り添わなければそれは実現できません.

面接が上手くいかないクライエントに対しては

苦手意識をもってしまうセラピストがいます.

そうなると,介入も「訓練」要素が強くなります.

コミュニケーションも機嫌を伺うようなスタンスになり,

結果,クライエントの技能が向上しても,

その現象は,Enabling Occupation とは程遠いものになってしまいます.

あなたが上手く作業を聴取することが,作業療法の成功ではありません.

クライエントが大切な作業を通して健康を取り戻すことが目標なのです.

自分が成功するかどうかではなくて,

クライエントが成功するかどうかで臨床に望んでください.

どこかでこんな言葉を聞きました.

「失敗など存在しない,ただフィードバックがあるだけ」

正にその通りだと思います.

僕たちは,クライエントの幸せの為に存在します.

だから,どんな結果であれ,全ての結果は次の支援のための情報なのです.

「失敗した」とか,「成功した」とか,

クライエントに関係のない感情に縛られないでください.

「結果」はクライエントの中にのみ存在します.

「成功」はクライエントの中にのみ存在します.


20111122

非現実的な推薦



活動を治療的に使用して機能障害を減少させるには、

クライエントに馴染みのある活動に取り組んでもらい、能力を強化する。

作業療法士にはクライエントにとって一見馴染みがあるように見えても、

実は文化的背景や貧困のせいで馴染みの無い活動を使用した場合には、

どのような影響があるだろうか。

この影響をどう評価し介入したらよいだろうか。

クライエントは作業療法士にその活動には馴染みが無いと言う可能性はあるか。

作業療法士は、間違いが及ぼす影響を過小評価することがある 〜Brenda Beagan〜


 

私たちの多くは、現在、クライエントを仲間として働くことの価値を認め、

サービスの使用者の熟達した意見を正当に認めようと

努力すべきであることは知っている。

しかしそうはしているが、私たちは時折

これは「専門知識の重要性を否定するものではない」(Kusznir&Scott)

ことを思い起こす必要がある。

結局のところ、クライエント中心の実践は、

理解できる展望をとること、

そして、クライエントに十分な情報を与えることが含まれ、

それによって作業生活に関して

説明の上の選択をできるようにすることであろう(Law&Mills)。

実際、クライエント中心の実践の本質は、

私たちが用いる道具の中にあるのではなく、

私たちが採用するアプローチにあるのである。

それは、作業療法士が

「動機付けられ、よく働き、ともに楽しく働き、感謝し、奮い立つ」

ようにすることで、さらになされるものであり、

そして、作業療法士が、

「非現実的な推薦」(Kusznir&Scott)

をする時に脅かされる。




20111107

根は強く幹はしなやかに枝葉は光を遮らず


幼い頃は好奇心旺盛で、いつも両親をハラハラさせていた。
今は常に本を手放せない僕だけど、子供の頃は遊ぶ事ばかりで、読書なんて殆どしなかった。
高校生活も終盤になって、ようやく将来のことを考えはじめた。

受験勉強には苦労したけれど、初めて勉強の面白さが少し分かった時でもあった。
でも専門学校時代は勉強よりもバイトの思い出が強く残っている。
勉強で興味があったのは運動学で、全ての機能障害を治せるセラピストになりたい。
そんな想いを抱いていた。

就職してからもしばらくは機能訓練ばかりしていた。
老健に移動になった時。作業療法について悩みはじめた。
クライエントの幸せに対して、OTとして僕ができることを悩みはじめた。

これまでの間に、沢山の恩師や仲間との出会いがあり、沢山の学びとの出会いがあり、
そして沢山の自分を更新してきた。

今は臨床や研究や管理や家事......忙しい中、沢山悩みながらもで全てが充実していると思っている。

簡単に自分の半生を振り返ってみても、その全ては成してきたことだ。
自分の人生を振り返って、「よく手足を動かした」なんて過去を振り返る人はいない。
確かにまちがいではないけれど。

「僕らしさ」とは、僕が成してきたことの統合だ。
人生とは,生活とは成すことだ。
成すとは、作業遂行そのものだ。

リハビリテーションの目標はクライエントの「その人らしい」人生を取り戻すことならば、
クライエントの主目標は、作業を含んでいなければいけないと思う。
クライエントの意味のある作業を含んだ人生の目標を、関わる全ての人間で共有したい。

その目標を達成するための介入手段は当然様々でいいと思う。

機能訓練に特化する職種がいてもいい。
リスク管理に特化する職種がいてもいい。
高次脳機能に特化する職種がいてもいい。

でも共有する目標は、クライエント自身の意味のある作業を含んでいることが大切だと思う。
このプロセスがあるか無いかで、各職種の「介入」という作業のエミックが変わると思う。
エミックの変化は介入における表出など様々な要素を洗練させ、そしてそれは
クライエントの解釈を前向きに変える力を持つと思う。

作業療法士は、作業の力でクライエントの健康を支援する専門職だ。

時には作業に必要な身体機能の再獲得を支援するかもしれない。
時には作業に必要な動作の獲得を支援するかもしれない。
時には作業を一緒にするかもしれない。
時には作業に必要な環境を整備するかもしれない。
時には作業したい気持ちを取り戻すことに焦点を当てるかもしれない。

人間には大切なものが沢山ある。

「大切な場所」
「大切な時間」
「大切な立場」
「大切な物」
「大切な人」

これらは「環境」と言い換えられるかもしれない。
これらの環境とクライエントは、全て何らかの作業で結びついている。

CMOP-Eを見ればすごく分かりやすい。




人は、作業を介することで、環境と強く結びつくことができる。
「大切な自分」になることができる。

でも、その実践は容易ではない。
いつも作業療法の複雑さと多様さに陶酔しながら、同時にいつも悩んでいる。

作業療法には「プロセスモデル」というものがある。
僕の臨床は、OTIPMを”ベース”にしている。




OTIPMはとてもシンプルで洗練されている。
作業療法介入において大切な要素を各段階でしっかりと捕まえている。

ラポールや主観的作業遂行文脈の確立によって
作業療法士とクライエントは、クライエントにとって意味のある作業を含んだ生活と、
その意味のある作業の”意味”を構成している理由を明らかにできる。

僕はこの段階でADOCを使用することが多い。
COPMを使ったっていい。OSAだっていい。
どんな評価法を使用するか?よりも、この段階をしっかりとクライエントと共有することが大切だと思う。

作業遂行の分析には可能な限りAMPSを使用する。
作業遂行上の問題をすぐに機能評価に頼るのではなく、まずは”作業の体験”を経て遂行の質を観察評価する。

介入モデル選択の段階は、OTIPMの定義のそれよりもかなり柔軟に考えている。
CMOP-Eが示すように、作業を中核に据えた 人ー作業ー環境すべてが作業療法の対象領域なのであれば、
その介入は当然多様性をもっていなければならないと思う。

僕は、クライエントが意味のある作業を取り戻すために妥当であると思えば機能訓練もする。
動作練習もする。環境調整もする。手段的作業も使う。家族指導もする。何でもする。

意味のある作業(項目)だけを抽出しても、クライエント特有の文脈を無視しては、
真の可能化の方法は導けない。

作業と文脈を共有しても、観察で遂行の質を評価でせずに原因を機能障害だけに求めたら、
それはただのトップtoボトムでしかない。介入手段選択に対する視点を狭小化してしまう。

作業と文脈を共有して、観察を行っても、機能に対してしっかりと評価、介入できるスキルを有していなければ、
今の日本の医療の中でコンセンサスは得られない。

OTIPMなど既存のモデルの重要な要素はしっかりと踏まえながらも、自分達のフィールドでより効果的に活用できるように、
柔軟に使用することが重要だと思う。

でも自分達の都合の良い解釈だけは避けたいと思う。
機能訓練に関心があるから、とにかく作業の可能化に向けて特定の手技で介入する。
機能評価や機能訓練の知識に自信がないからすべて作業でのみ介入するなど、
どんなにクライエントの意味のある作業を共有しても、これだけは絶対に良くない。

何故意味のある作業の”項目”だけを共有するのではなくて、
主観的遂行文脈を共有するのか?なぜ観察を重視するのか?
それは、クライエントにとって最も有効な可能化の手段を見つけるため。
その客観性を無視して、自己の興味関心、得手不得手で介入手段を選択していては、
このプロセスの意味がなくなってしまう。

作業に焦点を当てるという専門性を大切にしながら、その実現のために有効な手段を
多様にもっている。そんなOTになりたいといつも思っている。




20111021

僕は作業に答えがあると思う

楽しかった思い出は沢山あるけれど
あの日に戻りたいなんて思ったことは一度もない

でも未来を見つめて理想を描くその理由は
あの日にあったのかもしれない

過去があったから未来を描けるのだとしたら
僕の「今」は過去と未来の統合の現象なんだと思う

操作することができない時間の流れの中で
当たり前のように過去は蓄積されて
その蓄積から描く未来が更新されて

連続性は意識の中で時間を止めることでしか
その構造を語ることはできない

未来に希望を描くことのできる人は
過去の解釈が明るい人かもしれない

未来を悲観する人は
過去の解釈も否定的なのかもしれない

過去の解釈が明くても
今の環境を肯定的に捉えられなければ
描く未来は否定的かもしれない

全ては同時に立ち現れる現象で
そこに順序や階層は存在しない

今を作るということは
過去と未来を作るということだと思う

過去は体験とその解釈の統合の結果
肯定的な事実として刻みたい

未来はある程度の実現可能性を秘めた
イメージを内包していたい





人は居室からトイレに向かうのではない

過去から未来に向かっている

過去と未来は連続性が必要

連続性の断たれた「今」は

自分が何者なのかもわからない

そこに主体性なんて存在するはずもなく

ただただ時間が流れて
流れた時間が否定的な解釈を生む過去を生産し続ける

僕は作業に答えがあると思う

過去とは成したことであり
未来とは成したいこと

大切な何かを成すことで大切な何かを成したいと思えること
実際に成すことができること

クライエントの「今」は
そんな「今」であってほしい

可能化という言葉の本当の意味を
考えてほしい


20111009

もう目の前にあらゆる物が揃っている。

評価の結果から介入計画を立案することは大切だけど、
もっと大切なのは何を評価するかだと思う。


評価の内容は、自分は何をする専門職なのか?
その自問に対する答えによって決まると思う。


動きを改善させることが専門性だと思うならば、
当然身体機能や能力の評価が中心になる。


安心を提供することが専門性だと思うならば、
心理面の評価が中心になるかもしれない。


作業療法士は何の専門家だろう?






作業の専門家だろうと思う。


でも少し言葉が足りないとも思う。


でもあんまり長く言うのもどうかと思う。


短く言うならば、やはり「作業遂行」の専門家だと思う。


作業はその活動単体で存在や表現が可能だけれど、
作業遂行は個人の文脈無しに語ることはできない。


動作遂行と作業遂行は同義ではない。


動作遂行は現象や耐久性、効率性や安定性で語ることが可能だけれど、
作業遂行はそこに個人の文脈に依存した意味や価値がある。


動作が可能だから生活できるのではない。
生活の中に責任や義務、楽しみや習慣、役割や目標があるから体が動いて、
そしてそれは作業遂行と呼ばれるんだと思う。


だから作業遂行は身体機能や動作だけでは介入することはできない。
人ー環境ー作業の連関の中に作業遂行を見いださなければいけない。


作業遂行に焦点を当てるということは、
人ー環境ー作業すべての側面に焦点を当てるということ。


それはそれぞれ別々の側面として情報を把握するということではなくて、
あくまでも連関の中、揺らぎの統合として捉えることが必要だと思う。


だから僕たちはクライエントと話さなければならない。
意味のある作業は何か?を知るのではなくて、
意味のある作業の「意味」とは何なのか?
その意味を担保する作業遂行は、
人ー環境ー作業のどのような連関のもとに成立していたのか?
それを共有しなければならないと思う。


そして恊働しなければならないと思う。
その意味のある作業の「意味」を守るために
機能回復や、動作の習得や、遂行の工夫や、環境の変更や、時には作業の変更を。


ADOCはクライエントと作業療法士が共に作業に焦点を当てて
障害によって忘れかけた意味のある作業を見つけることができる。
面接を通して10dimensionを整理する為の情報も共有することができる。
思考が医学モデルや還元主義に支配されたクライエントが、簡単に
作業遂行文脈に思考変換できるこのツールは芸術作品だとさえ思う。


AMPSは単純な動作としてではなく、運動技能、処理技能の両側面から
作業遂行の質を極めて高いエビデンスで僕たちに示してくれる。
作業を動作の安定性や体力などの偏った側面で評価することを良しとせずに、
作業遂行の質を定量化したことは作業療法の革命だと思う。


OTIPMはその洗練された構造から、僕たちの介入のプロセスや
考慮すべきポイントを的確に示し導いてくれる。
10dimensionと観察と介入モデル選択のプロセスは美しいと思う。


MOHOのサブシステムと多くの整備された評価法は、作業適応を妨げる
解決すべき因子と解決のヒントを与えてくれる。
常に固定されることのない人間のダイナミクスを、ここまで詳細に
構造化したモデルは類希な存在だと思う。


CMOP-Eは、作業療法とは何をする専門職か?そして作業遂行と結びつきを
シンプルかつ力強く示してくれる。engagementが加わったことで、
ますます力強く、そして魅力的な構造になったと思う。


OSは、僕たちの大切にしている「作業」とは何か?その原理的な探求の答えを
いつも明確に、そして多面的に示してくれる。人は作業的存在だと思う。


もう目の前にあらゆる物が揃っている。


少しの疑問と勇気と行動が大切だと思う。


自分のあり方で、自分の関心によって
クライエントの見方が変わる。
見方が変われば評価が変わる。
評価が変われば導いた推論が変わる。
推論が変われば介入内容が変わる。
介入内容が変わればクライエントが変わる。
クライエントが変わればクライエントの未来が変わる。
クライエントの未来が変われば作業療法士が変わる。


僕たちは何をする人なのか?
それをいつも問い続けなければいけないと思う。
いつも自己研鑽を続けなくてはいけないと思う。


僕たちはどんなに努力しても絶対じゃなくて、
人がより良く生きようとする想いは絶対だから。