20100926

その人らしさの抑制

僕はナースステーションでカルテを書いている。



僕は自分が誰だか知っている。

自分の仕事とキャリアと立場を知っている。

昨日何があったか、明日何があるのかを知っている。

今何をしなければならないか・何をしたいかを知っている。

次になにをするべきかを知っている。

自分の時間を埋める価値ある作業があることを知っている。

やりたくない作業もあるが、いずれ片付くことを知っている。

ここがどこなのかを知っている。

どうやってここに来たのか、どうやって帰るのか、
いつ帰るのかを知っている。

今が何時なのかも知っている。

車がどこに停めてあるのかを知っている。

駐車場までどうやって行くのかを知っている。

車の鍵がどこにあるのかを知っている。

妻と子供が安全な場所にいることを知っている。

どこにいるのかを知っている。

何をしているのかを知っている。

あとどのくらい時間が過ぎれば会えるのかを知っている。

両親がどこにいるのかを知っている。

元気でいることを知っている。

今日晩御飯が用意されていることを知っている。

もしも用意されていなくても自分で用意できることを知っている。

買うこともできることを知っている。

お金をいくら持っているのかも知っている。

財布の場所も知っている。

休息する場所があることを知っている。

周りにいる人が誰かを知っている。

自分に危害を加えないことを知っている。

身のまわりのことは全て自分でできる。

できないことも解決手段を知っているし、
今知らなくても考えることができる。




だから僕は僕でカルテを書いている・・・書けている。




突然動き出そうとするクライアントに

何て声をかけられる・・・

理由をどれだけ妥当性をもって予測できる・・・

人生の価値と安心とその人らしさをどれだけ取り戻せる・・・




隣りにいる人は、ただ静かに車椅子に座っているかもしれないが・・・




目が覚めると突然異国の人ごみの中に立っていた。

誰も言葉が通じない。

私が赤に見えるものを周りのみんなは当然のように青という。

周りの人間が敵か味方かも分からない。




そんな耐え難い・理解の範疇を超えた世界の中で戸惑い・震える存在なのかもしれない・・・




人権擁護とはベッド柵の数を減らすことではない・・・

安全ベルトの装着時間を減らすことではない・・・





“その人らしさ”に対する抑制を排除したい。

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