僕はナースステーションでカルテを書いている。
僕は自分が誰だか知っている。
自分の仕事とキャリアと立場を知っている。
昨日何があったか、明日何があるのかを知っている。
今何をしなければならないか・何をしたいかを知っている。
次になにをするべきかを知っている。
自分の時間を埋める価値ある作業があることを知っている。
やりたくない作業もあるが、いずれ片付くことを知っている。
ここがどこなのかを知っている。
どうやってここに来たのか、どうやって帰るのか、
いつ帰るのかを知っている。
今が何時なのかも知っている。
車がどこに停めてあるのかを知っている。
駐車場までどうやって行くのかを知っている。
車の鍵がどこにあるのかを知っている。
妻と子供が安全な場所にいることを知っている。
どこにいるのかを知っている。
何をしているのかを知っている。
あとどのくらい時間が過ぎれば会えるのかを知っている。
両親がどこにいるのかを知っている。
元気でいることを知っている。
今日晩御飯が用意されていることを知っている。
もしも用意されていなくても自分で用意できることを知っている。
買うこともできることを知っている。
お金をいくら持っているのかも知っている。
財布の場所も知っている。
休息する場所があることを知っている。
周りにいる人が誰かを知っている。
自分に危害を加えないことを知っている。
身のまわりのことは全て自分でできる。
できないことも解決手段を知っているし、
今知らなくても考えることができる。
だから僕は僕でカルテを書いている・・・書けている。
突然動き出そうとするクライアントに
何て声をかけられる・・・
理由をどれだけ妥当性をもって予測できる・・・
人生の価値と安心とその人らしさをどれだけ取り戻せる・・・
隣りにいる人は、ただ静かに車椅子に座っているかもしれないが・・・
目が覚めると突然異国の人ごみの中に立っていた。
誰も言葉が通じない。
私が赤に見えるものを周りのみんなは当然のように青という。
周りの人間が敵か味方かも分からない。
そんな耐え難い・理解の範疇を超えた世界の中で戸惑い・震える存在なのかもしれない・・・
人権擁護とはベッド柵の数を減らすことではない・・・
安全ベルトの装着時間を減らすことではない・・・
“その人らしさ”に対する抑制を排除したい。
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