幼い頃は好奇心旺盛で、いつも両親をハラハラさせていた。
今は常に本を手放せない僕だけど、子供の頃は遊ぶ事ばかりで、読書なんて殆どしなかった。
高校生活も終盤になって、ようやく将来のことを考えはじめた。
受験勉強には苦労したけれど、初めて勉強の面白さが少し分かった時でもあった。
でも専門学校時代は勉強よりもバイトの思い出が強く残っている。
勉強で興味があったのは運動学で、全ての機能障害を治せるセラピストになりたい。
そんな想いを抱いていた。
就職してからもしばらくは機能訓練ばかりしていた。
老健に移動になった時。作業療法について悩みはじめた。
クライエントの幸せに対して、OTとして僕ができることを悩みはじめた。
これまでの間に、沢山の恩師や仲間との出会いがあり、沢山の学びとの出会いがあり、
そして沢山の自分を更新してきた。
今は臨床や研究や管理や家事......忙しい中、沢山悩みながらもで全てが充実していると思っている。
簡単に自分の半生を振り返ってみても、その全ては成してきたことだ。
自分の人生を振り返って、「よく手足を動かした」なんて過去を振り返る人はいない。
確かにまちがいではないけれど。
確かにまちがいではないけれど。
「僕らしさ」とは、僕が成してきたことの統合だ。
人生とは,生活とは成すことだ。
成すとは、作業遂行そのものだ。
リハビリテーションの目標はクライエントの「その人らしい」人生を取り戻すことならば、
クライエントの主目標は、作業を含んでいなければいけないと思う。
クライエントの意味のある作業を含んだ人生の目標を、関わる全ての人間で共有したい。
その目標を達成するための介入手段は当然様々でいいと思う。
機能訓練に特化する職種がいてもいい。
リスク管理に特化する職種がいてもいい。
高次脳機能に特化する職種がいてもいい。
でも共有する目標は、クライエント自身の意味のある作業を含んでいることが大切だと思う。
このプロセスがあるか無いかで、各職種の「介入」という作業のエミックが変わると思う。
エミックの変化は介入における表出など様々な要素を洗練させ、そしてそれは
クライエントの解釈を前向きに変える力を持つと思う。
作業療法士は、作業の力でクライエントの健康を支援する専門職だ。
時には作業に必要な身体機能の再獲得を支援するかもしれない。
時には作業に必要な動作の獲得を支援するかもしれない。
時には作業を一緒にするかもしれない。
時には作業に必要な環境を整備するかもしれない。
時には作業したい気持ちを取り戻すことに焦点を当てるかもしれない。
人間には大切なものが沢山ある。
「大切な場所」
「大切な時間」
「大切な立場」
「大切な物」
「大切な人」
これらは「環境」と言い換えられるかもしれない。
これらの環境とクライエントは、全て何らかの作業で結びついている。
CMOP-Eを見ればすごく分かりやすい。
人は、作業を介することで、環境と強く結びつくことができる。
「大切な自分」になることができる。
「大切な自分」になることができる。
でも、その実践は容易ではない。
いつも作業療法の複雑さと多様さに陶酔しながら、同時にいつも悩んでいる。
作業療法には「プロセスモデル」というものがある。
僕の臨床は、OTIPMを”ベース”にしている。
OTIPMはとてもシンプルで洗練されている。
作業療法介入において大切な要素を各段階でしっかりと捕まえている。
ラポールや主観的作業遂行文脈の確立によって
作業療法士とクライエントは、クライエントにとって意味のある作業を含んだ生活と、
その意味のある作業の”意味”を構成している理由を明らかにできる。
僕はこの段階でADOCを使用することが多い。
COPMを使ったっていい。OSAだっていい。
どんな評価法を使用するか?よりも、この段階をしっかりとクライエントと共有することが大切だと思う。
どんな評価法を使用するか?よりも、この段階をしっかりとクライエントと共有することが大切だと思う。
作業遂行の分析には可能な限りAMPSを使用する。
作業遂行上の問題をすぐに機能評価に頼るのではなく、まずは”作業の体験”を経て遂行の質を観察評価する。
介入モデル選択の段階は、OTIPMの定義のそれよりもかなり柔軟に考えている。
CMOP-Eが示すように、作業を中核に据えた 人ー作業ー環境すべてが作業療法の対象領域なのであれば、
その介入は当然多様性をもっていなければならないと思う。
僕は、クライエントが意味のある作業を取り戻すために妥当であると思えば機能訓練もする。
動作練習もする。環境調整もする。手段的作業も使う。家族指導もする。何でもする。
意味のある作業(項目)だけを抽出しても、クライエント特有の文脈を無視しては、
真の可能化の方法は導けない。
作業と文脈を共有しても、観察で遂行の質を評価でせずに原因を機能障害だけに求めたら、
それはただのトップtoボトムでしかない。介入手段選択に対する視点を狭小化してしまう。
作業と文脈を共有して、観察を行っても、機能に対してしっかりと評価、介入できるスキルを有していなければ、
今の日本の医療の中でコンセンサスは得られない。
OTIPMなど既存のモデルの重要な要素はしっかりと踏まえながらも、自分達のフィールドでより効果的に活用できるように、
柔軟に使用することが重要だと思う。
でも自分達の都合の良い解釈だけは避けたいと思う。
機能訓練に関心があるから、とにかく作業の可能化に向けて特定の手技で介入する。
機能評価や機能訓練の知識に自信がないからすべて作業でのみ介入するなど、
どんなにクライエントの意味のある作業を共有しても、これだけは絶対に良くない。
何故意味のある作業の”項目”だけを共有するのではなくて、
主観的遂行文脈を共有するのか?なぜ観察を重視するのか?
それは、クライエントにとって最も有効な可能化の手段を見つけるため。
その客観性を無視して、自己の興味関心、得手不得手で介入手段を選択していては、
このプロセスの意味がなくなってしまう。
作業に焦点を当てるという専門性を大切にしながら、その実現のために有効な手段を
samuraiOTさん
返信削除いつも素敵なブログ拝見しています。
ようやく「自分らしさ」がうっすらとわかるようになり
その人らしさの支援についての 心におちてくるように
なりました。 いつもこのブログで勉強させてもらってます。
感謝!
yasuさん お久しぶりです。そしてありがとうございます。
返信削除僕もyasuさんのブログにいつも元気をもらっています。
今の医療制度の中で、作業療法士が胸を張ってクライエントの「自分らしさ」を支援する。そんな”当たり前”を作りたいですね。今後とも宜しくお願いいたします。
いつも悩みっぱなしです。